googleのブログを使用してはいるが、googleの「技術は善」という理想主義の結果、従来の文化を再編成するアプローチは詰まるところ、ameican styleだ。
米国でのgoogleと著作権団体との和解はその内容はどうであれ、class actionという和解方式は、米国法のやり方で、著作権法特有のものではない。
集団訴訟の場合、和解に不満な対象者が離脱の意思を表明しないと、和解内容に拘束される。
しかもそれが域外であるはずの日本の対象者にも及ぶというのである。日本は逆で、参加を表明しないと、利益を受けられないが、拘束もされない。「アメリカ合州国」と言われる国家らしいやり方だが、日本の作家が米国で出版されていないと言う事実が、即絶版状態であり、米国内での権利を喪失したと同じ結果を招き、さらにそれが世界中でも同様の結果を生むとしたら、これはやはり米国による「司法占領」だろう。しかもそれが技術の理想郷であるgoogleであるところ、かつてのユートピア米国の帰結と何も変わらない。
最も、国境自体が無意味化する現代(世界中が米国化したのかも)、著作権というものの国別の権利に意味があるのかということ、法管轄や準拠法という実務と直結する部分は、著作権法学のHOTなところだと思う。日本版検索エンジン開発のための複製を可能にするとか、日本版フェアユースだとかよりも重要な研究課題ではないだろうか。
最近読んでる少女マンガは、きらきらしたキャラがまぶしい。この輝きに「NO!」ばかり言っていたのか、あるいはチャンスを逃した男が得られなかったもの、日々、後悔し、せつなくなる。
その渇望から何が生まれるのか。
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