2009年4月4日土曜日

4.バベルの図書館

「老作家」の「塔」には古今東西のあらゆる物語の断片が集められている。ここでは時間という観念は何の意味もなく、ただ物語の断片が一つの作品となる死の瞬間だけが存在する。ここにも対称性の揺らぎは存在するから、何らかの化学反応が起きる瞬間には、物語の断片が揺らいだ時である。
「老作家の」の作品は、作者とか読者とか、言表とか言説とかの秩序が崩壊し、エネルギー反応を起こす。そして作品は生まれ、死ぬ。
だから「老作家」にはゴーストライターであるとか、偽作であるとか、盗作であるとかという観念は全く意味はない。「塔」にこのシステムを形成してから、作品を生み続け、そして死ぬのを眺めてきただけだ。
そしてこの宣言は、「老作家」自らが、作品となることを意図する。
このシステム自体を物語とし、それに支配されるのか、支配するのか。
そして「塔」は崩壊するのか。メタ・フィクションである。
著作権法的には、著作者だけが、このシステムのプレイヤーである。
「著作物を創作する者をいう」(著作権法2条1項2号)
そして創作プロセスについては、法は観念しないから、他には第14条に「著作者名として・・・・・・表示されている者は、その著作物の著作者と推定する」とあり、第75条の「実名登録」でも推定される。
ゴーストライターについては、著作権を譲渡した者と考えるか、法人著作物の従業者とみるか、講学上の争いがあるが、判例が存在しない以上、決め手はない。
また物語の断片の対称性が揺らいで作品が生まれるというシステムは文学論の範疇であって、法学の対象ではない。著作権法の判断とは審美的なものではなく、あくあまで財産上の争いなのである。
ここに著作権法の限界がある。

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