2009年6月11日木曜日

75.Data for nothing

マスコミ論がいつのまにかメディア論になり、情報工学とセットになったところで、社会科学としてのマスコミ論は役割を終えたと思う。
「メディアはメッセージ」であるというマクルーハンの存在があったが、所詮、マスコミ論は「メッセージの内容」にフォーカスして議論してきた。
しかし形式・量という工学的視点から機能論に論じられ、かつ生産的な議論で語られると、従来の研究は陳腐な紋切り型の議論の繰り返しに見え、古典的として排除されたのだろう。
しかし現在はむしろ古典的な研究こそが求められる。
メディアの形式が刷新された後、先祖帰りするときに必要なのは内容だ。
芦部憲法学の「二重の基準論」や樋口憲法学の憲法は個人の価値観に立ち入らないという議論とは別に「メッセージの是非」を問うべきだ。
最近、蒲島郁夫熊本県知事は、政治学者と政治家の違いは、現実の中で具体的解決をさぐることだという発言があった。かつては世論調査の一人の回答は均一な一票以上の価値はないという感覚だったという。しかし今は、一人一人が均一と言うことはありえないという。
大きな変化だ。

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