2009年6月6日土曜日

70.ふたりの鈴木

会社にいると、いろんな存在が必要で、自分がぶれた時に基準となる人、そしてとにかく話を聞いてもらう人が貴重だ。しかし私は3月に前者を失った。いまだに迷走するのはそのせいだ。
教育という言葉がほとんど学校教育という意味になった戦後、20世紀にあっては、仕事や遊びなど何でも教える人、育てる人がいるという事実を忘れている。もちろん教え、育てられる人がいる以上、教える人、育てる人がいるという事実がほとんど空気のようになっていることは悪いことではない。
また結局は、教え、育てられる人次第であることを考えるとその機能については、効率性よりも、何かを得たということ、それが些細なことでも十分だということの方が重要だ。
そして学校教育にしぼると、この世には教師だった人と教師である人と、「大部分のそれ以外の人」がいる。
『鈴木先生』の7巻を読んだ。「大部分のそれ以外の人」にはmust buyである。教師である人には出会ったら、読んだ方がいい。最後の教師だった人には、自分の過去が重くない人は読めるだろうが、そうではない人には劇薬である。
常々、先生という言葉は優しいが、「教師」という言葉はつらいと考えてきた。「教士」ではいけないのか、スキルを得て、試験に合格し、OJTで成長していく立場は会計士とか弁護士と同じだと思う。
「教師」がハマるのは、三流週刊誌の「豊満女教師が脱いじゃった!知性と裏腹な下半身」の中吊りくらいだろう。

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